永観堂(禅林寺)
連休に訪れた京都東山の写真(銀閣寺)の続きです。 立体視 できるようにしましたのでご覧下さい。
永観堂は聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山(せいざん)派の総本山で、通称永観堂と呼ばれている。
斉衡2(855)年空海の弟子真紹(しんしょう)が藤原関雄(せきお)の山荘を寺院としたのが起こりで、
貞観5(863)年には天皇から定額(じょうがく)を得た。
その後一時衰えたが、平安時代の末、承暦年間(1077~1081)に永観(ようかん)が住持となり、
念仏道場を開き寺を中興した。
永観はこれにより中興開山と呼ばれ、寺名も永観堂の通称で呼ばれるようになった。
以後当寺は浄土教を広め、鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖證空(しょうくう)の弟子浄音(じょうおん)が
住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めた。
その後応仁の乱により堂舎が焼失したものの明応6(1497)年後土御門天皇の命により再興し、
以後逐次諸堂が再建され現在の伽藍が整えられた。
寺宝として山越阿弥陀(やまごしあみだ)図(国宝)をはじめ鎌倉時代以来の仏画多数を蔵し、
特に本尊の阿弥陀如来立像は首を左に向けた我が国唯一の逸品で「みかえりの弥陀」と呼ばれている。
左京区永観堂町
( 京都観光Navi より )
永観堂は聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山(せいざん)派の総本山で、通称永観堂と呼ばれている。
斉衡2(855)年空海の弟子真紹(しんしょう)が藤原関雄(せきお)の山荘を寺院としたのが起こりで、
貞観5(863)年には天皇から定額(じょうがく)を得た。
その後一時衰えたが、平安時代の末、承暦年間(1077~1081)に永観(ようかん)が住持となり、
念仏道場を開き寺を中興した。
永観はこれにより中興開山と呼ばれ、寺名も永観堂の通称で呼ばれるようになった。
以後当寺は浄土教を広め、鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖證空(しょうくう)の弟子浄音(じょうおん)が
住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めた。
その後応仁の乱により堂舎が焼失したものの明応6(1497)年後土御門天皇の命により再興し、
以後逐次諸堂が再建され現在の伽藍が整えられた。
寺宝として山越阿弥陀(やまごしあみだ)図(国宝)をはじめ鎌倉時代以来の仏画多数を蔵し、
特に本尊の阿弥陀如来立像は首を左に向けた我が国唯一の逸品で「みかえりの弥陀」と呼ばれている。
左京区永観堂町
( 京都観光Navi より )
次回は南禅寺を紹介します。
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